タイトルややこしいですが、これは文武陵の比定の経緯に由来します。
文武天皇は天智天皇・持統天皇の孫にあたり、奈良時代の『続日本紀』には「檜隈安古陵」に、平安時代の『延喜諸陵式』には「檜前安占岡上陵」に葬られたとあります。つまり「檜隈案・・・「という古墳は文武陵の名称だけども、それはどこにあるかという点は不確定な点があり、宮内庁は檜隈案古岡上陵に栗原塚穴古墳を比定しているという意味になります。
ちなみに「安古」と呼ばれた場所がどこかで諸説が出ていたようで、決定は幕末から明治にかけて活躍した国学者の谷森善臣が、現文武陵の南西に「アンドク」という小字が残っていて、「アンドク=アンコウ=安古」と解釈し現在に至っているということです。
しかしこの時代の天皇陵は八角形をしている点を考えると、文武陵とは言えず実際には近くにある中尾山古墳が文武天皇の真陵という説が有力です。
改めて比定の経緯をトレースすると、あやしさには納得ですね。
ちなみにこの古墳は円墳で直径約28mとのことですが、比定にあたり損傷部分を修復されており原型は留めていないと予想されます。
この古墳にも墓碑銘はあったと池田氏は著書の中で記載があります。
そして墓碑銘には「倭姫王命」と。
著書内には「陵石垣碑石から」とありましたので、膨大な数の石垣の石を目を凝らして見て回りました。
しかし残念!碑石をまず特定することが今回はできませんでした!!氏のPHOTOからは、石垣の上の石で周囲の石の大きさから比較しても目立つ石であることは間違いないのですが・・・。さらに念のため高松塚古墳からつながる国立飛鳥歴史公園内の石垣も見て回ったのですが発見できず(無念)。
ちなみに氏の墓碑銘調査から出てきた「倭姫王命」は、舒明天皇の第一皇子古人大兄皇子の娘で天智天皇の皇后です。
改めて、陵を眺めてその場を後にしました。