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サブ3.5ランナーのマラソン記録、古墳を楽しもCHANNEL!で伝えきれないこと

女狭穂塚古墳/男狭穂塚古墳:宮崎県西都原市(2017.12.24)

しばしの夏休み、できてないことに取り掛かろうと未整理の古墳について書くことにしました。2016年、2017年と宮崎西都原エリアの古墳チェックに行った記録が途切れてたままなのですが、理由はインパクトが大きるからなのです。実際2016年に行きながら、翌年も二泊三日で行っている位の規模の古墳エリアなのでこうなりそうな気はしてたんですが。。。
こういう空いた時間に改めて整理と思い立ちました。

まずこの2つの古墳。

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これが女狭穂塚古墳と男狭穂塚古墳です。なぜこんなに接近して造られているのか?そして男狭穂塚古墳はなぜ造りかけのように見えるのか?不思議でたまらなくなる、そんな古墳があるのが宮崎西都原市です。

これだけ密接な状態は、自分が赴いた中では佐紀古墳群くらいでしょうか。ただ佐紀古墳群ではうまく前方後円墳のくびれの部分に別の古墳の後円部が配置され古墳の形は維持された状態なのですが、女狭穂塚古墳と男狭穂塚古墳の場合は異様です。

女狭穂塚古墳

全長180mを誇る九州で最大の前方後円墳です。被葬者は神話に登場する木花開耶姫コノハナサクヤヒメ)。なんと神話に登場する姫でありながらも宮内庁は陵墓参考地として指定しているため立ち入りはできず、森の中で外形もチェックすることはできません。

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古墳自体を眺めることはできないので、信憑性は全くありませんがコノハナサクヤヒメについて少し。サクヤヒメは天照大御神の孫である邇邇芸命(ニニギ)と結婚しました。ただしその結婚には一悶着があったのです。
元々はサクヤヒメとニニギが出会い結婚しようとするのですが、サクヤヒメの父は姉も一緒に差し出したのです。ところがサクヤヒメ姉妹は、妹のサクヤヒメが大変美人であるのに対して、姉のイシナガヒメは容姿が醜く、ニニギは姉はいらないと送り返してしまったのです(ニニギもひどい男です)。このニニギの対応に父であるオオヤマツミは怒り、姉も娶れば子孫は永遠の命を手に入れることができたのにと、とんでもなく影響範囲が大きいことを語るのです。今更言われてもという感じですが、以降人間には寿命ができたと神話の中では語られています。
そんな重要人物であるサクヤヒメの墓として女狭穂塚古墳は治定されています。

神話話はこれくらいにして、考古学的に古墳情報を見ていきましょう。
築造時期は5C前半を想定、3段築成、そして形がいかにも見慣れた古墳らしいというか、巨大古墳が築造された時代の前方部が広がった形をしています。古墳を見慣れていない方でも、"違和感無い"形ではないでしょうか?実際この古墳と相似形と言われる古墳が全国にいくつか存在します。
・岡山 造山古墳350m
 最近チェック女狭穂塚古墳書かないと!という気分に
・大阪 仲津山古墳290m
・大阪 上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)365m
・群馬 太田天神山古墳210m
と相似形と思われる古墳は巨大古墳ばかり。
これだけ魅力的な古墳ですが、陵墓参考地で近づけない点や、近畿の古墳以外はどうしても露出が低くなりがちであまり情報が一般的になっていない点が残念ですね。

 

男狭穂塚古墳
ではとなりの一見造りかけのような古墳の方に。こちらも神話の世界から入ると、宮内庁邇邇芸命ニニギノミコト・・・サクヤヒメの夫で天皇家の先祖)としています。つまり夫婦で並んで古墳があって、どっちかっていうと妻の古墳が完成している?そんな印象です。
この疑問に関してはいろんな説が過去ありつつも結論づいていて、男狭穂塚古墳も壊された訳でも、造りかけでもなく完成しているということです。
西都原古博物館さんのサイトより画像をお借りしました。

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こちらはレーダー探査の測量図ですが、結果全長176mの帆立貝式の前方後円墳ということが判明しました。この測量図を見ると、男狭穂塚古墳の後方部がもう少し伸びるような画像に見えますが、この部分は古墳築造時ではなく後から処置された部分らしく、非常に短い前方部となり墳形としては帆立貝式、それも日本最大となります。なおどちらが先に造られたかはまだ分かっていません。

女狭穂塚古墳と男狭穂塚古墳およびその陪塚と思われる古墳は、西都原古墳群の一連の群からは少し外れたエリアにあります。
こちらも西都原博物館さんからお借りしました。

この2基の古墳が他とは異なるポジショニングであることがわかります。
西都原博物館については改めて。