今年初めに行こうと思っていながらもコロナの影響で中止になった出雲と大和展。通販で取り寄せた図録を眺めていたら、島の山古墳の出土品で結構な頁が割かれていました。石釧(いしくしろ)
車輪石(しゃりんせき)
出土元の島の山古墳は8年前に訪問しました。当時のPHOTOが下で、周濠に住宅がはみ出ていて、生活感あふれる古墳だった印象があります。全長190~200mと言われ、ぐるっと一周回って巨大さを堪能した記憶は今でも新鮮です。
この古墳の面白さはたくさんあって、その1つは埋葬施設で前方部と後方部に存在します。図録に載せられた出土品は前方部からのものです。その副葬品の性格からおそらく前方部には女性の可能性があるとされています。後方部は散逸していてよく分からない状態ですが仮に男性だったとすると、男女のペアが前方部と後方部に埋葬されたことになり、時代は違いますが邪馬台国の卑弥呼と男弟のような関係性があったのではないか?等、推測が広がります。
っとこんな印象までだったのですが、図録を眺めていると、「石釧」「車輪石」・・・。
改めてなぜこんなにたくさんの石製品が出土したのだろうと今更気になりだしました。
出土時の具合は、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館[大和の遺跡/古墳時代]より転載。この出土の具合、車輪石をもし三角縁神獣鏡に入れ替えたら、黒塚古墳じゃないかと思うような配置。車輪石や石釧は元々貝で作った腕輪を模造したもので、海に由来があります。この被葬者は海に由来がきっとあったんだろうと思われます。
ここまでなら図録を眺めてまた機会あったら立ち寄ろう程度な感覚だったかもしれないのですが、最近調べていた古代奈良湖の地図を改めて見てみてびっくり!今は奈良盆地となっているエリアに奈良湖(大和湖)と言われる湖があったようなのですが、その推定図の深いところにポツンとあるのが「島の山古墳」。
湖の一番深いところに島のようにあるのが島の山古墳です。
島の山古墳は、築造当時も湖の中で島の上に造られた古墳だったのではないか?だから島の山古墳という名前が付けられたのではないか?だから被葬者は海に由来した石製品が大量に副葬されているのではないか?
大量の石製品⇔古代奈良湖の地形⇔島の山の由来
この仮説でいろんな情報が紐づき整理できそうな気がしています。
なお島の山古墳は、他の周辺古墳と併せて三宅古墳群を形成しているということなんですが、他の古墳は築造時期が6世紀(島の山古墳は4世紀末~5世紀初)と異なっているので、他の古墳は奈良湖が干上がって来た頃に築造されたと考えることができます。
※この奈良湖推定図に引用元を記載しての表示としたいのですが、この図の出展がよくわからずWeb上に露出しています。どうもかつて近畿農政局のHPに掲載されていたのではないか?という情報までたどり着きましたが出展元不明でした。
今、島の山古墳に赴くと8年前とは全く違った気分で向かえそうです。
そうそう今年になって石釧の発見が明日香村でありました。明日香村で石釧の発見は初めてのことらしいです。
改めて古代奈良湖の想定図の中の明日香村の位置を確認するとこの辺り。
今まで石釧の発見がなくて当然だなと思う立地条件。今回の発見も欠片で古代の幹線道路と想定される場所からの発見でした。明日香村の広報誌「広報あすか」2月号に掲載された情報でなかなかにローカルな情報でしたが、展示の図録、島の山古墳とつながる情報で自分の頭の中では、古代湖の立地で整理された感じです。
いろいろと情報がとびましたが、巣ごもり期間には今回登場したキーワードでいろいろ調べてみると面白いと思います。