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高地性集落の再考

このタイトルでお読みになられる方はマニアックな方で説明不要と思いますが(笑)、そうじゃない方も若干いらっしゃると思いますので簡単に説明します。

【高地性集落】
弥生時代中期、紀元前1世紀頃から平地より高い山頂部や斜面に集落が形成されるようになります。弥生時代全般としては、吉野ヶ里遺跡で有名になったムラを囲って濠をもった環濠集落がありますが、それとは異なります。高地性集落がなぜできたかについては、山城であるとか、焼け土があることから狼煙を上げていたとか、軍事的性格で説明されてきました。過去には魏志倭人伝にある「倭国大乱」の影響と言われていたこともありました。瀬戸内にあるのは、航行する船を監視が理由だとするのです。なお、最近では軍事的な性格よりは経済的な理由から存在していたのではないか?という説が出てきています。

高地性集落に関しては、概略はこんな感じです。

もっとざっくり言うと、弥生時代は稲作時代で田んぼで仕事するには平野に住んだ方が良いのになぜ高地?という疑問が残った遺跡が存在するというのが一般的な見え方です。

対して自分が改めて勉強しておきたいと思ったのは「もしかすると高地性集落は縄文文化を継続した人々なのではないか?」という疑問がふと湧いてきたため。

今のところ高地性集落を縄文文化として捉えた研究は探せません。誰もテーマにされてないのかな?

このテーマがいよいよ面白くなってきたと思うのは、弥生人の定義がDNA調査よりよい細分化されてきている点。自分が学生の頃のような、弥生顔・縄文顔のような単純な話ではなく、
渡来人(大陸系弥生人
縄文人(縄文系弥生人
混血人(混血系弥生人
が共存していたことが分かっています。
高地性集落は縄文系弥生人の集落なのでは?という仮説。

高地性集落は戦いのための山城ではなく、水稲文化の伝播により平野部には、大陸系弥生人が住み、狩猟を主としていた縄文人は縄文系弥生人として適宜役立てるアイデアは取り入れながらも従来の生活を継続していたと考えられないだろうか?
高地性集落の人々は、平野の環濠集落の人々とは恒常的な敵対関係にはなく、生活圏も生活スタイルも異なるために物々交換で相互に協力していた(まあ時々争いはあったとして)?

実際高地性集落では
・遺物は一通り生活用品が揃っている
貝塚がある
・石包丁が発見されている

弥生時代として区分してしまうと、弥生時代の歴史的な事象基準で考えがちですが、弥生人のDNA調査により考古学だけでは解明できなかった点が明らかにできる段階が近づいていると思います。

ということで、今年は高地性集落から出土された人骨のDNA調査をどなたか研究されていないか、この周辺を調べてみたいと思っています。