日記のように書いているブログを振り返ると震災の話がインパクトに対してほとんど登場してないことに今更ながら気づきます。少し長くなりますが11日の前に書き出して見ようかと。
これ記憶が今でも本当に鮮明なので備忘する必要が無い位なんです。
震災の直前、自分は赤坂にいて赤坂見附から丸の内線に乗ろうと、下りエスカレータにいたんですが、下っているはずなのに上っている感覚となり「疲れてるのかな?」と思いながらよろけつつもエスカレータは動いているのでホームへ向かいました。
赤坂での商談が結構難易度高かったので疲れてても仕方ないなという状態だったんですが電車が止まっていて地震があったことを理解。
赤坂見附は便利な駅ですが、すべての地下鉄が止まってしまっているので迂回もできずしょうがないのでしばらく待機することにしました。
その時は事の重大さがわかっていないので次の訪問先に遅刻することと、合流する予定の同行者へ連絡をしなければという思いにかられながらも連絡つかず遅刻がとにかく心配事でした。
しかし一向に電車の運行が再開しないので、周りにもたくさん人が滞留している中で携帯のワンセグでTVを見てみると、10m以上の津波とか信じられないようなアナウンスがなされていました。地下鉄の出口の階段に立ち茫然としながらも、次の訪問どころではない状況になっていると知り、歩いて会社に戻ることにしました。非常事態であり即コンビニで食料とビールを購入。なんでビール買っているかは不明ですがとにかく必要な物品を調達して事務所を目指しました。
今から思えばその後の余震でビルのガラスが落ちて来たところもあったそうなのでその点はもっと警戒しなければならかなったんですがこの点は抜けていました。
会社では自分の消息がとれなかったということで心配だったようです。基本誰かと同行していたので会社携帯を持っておらず、個人携帯だけだったというのがこういう時は生存確認に手間取ってしまった模様。
事務所は神田にありその頃はまだランナーではなかったのでギリギリ歩いて何とか到着。生存報告し、他状況聞くと、都内の方でも大きな被害が出ているということで津波の心配はもちろんですがそれ以上に、自分の身、家族と連絡がとれない状況が心配な夕方でした。
その後、電話がつながりにくい状況の中、何とか家族と連絡がつき無事であること、当時まだ複数個あった水槽から水が溢れている連絡を聞き、家族が無事であることを前提に水槽の水漏れ被害を確認しました。
この件は今でも家族より水槽が大事なの?と嫌味を言われる事件です。
他営業所の社員の生存も大事な確認事項でしたが一人だけ戻れない状況にありました。当時川崎の方へ訪問していて、さすがに川崎からだと自分のように歩いて戻ることもできず待機し生存連絡だけがあった状態。
ただ彼は、その後夜通しかけて神田まで戻ってきて実際に無事が確認できました。家族の居住地が津田沼だったので神田から津田沼にその日の内に戻ることは無理でしたが。。。
状況が見えて来てとんでもないことが起こってしまったことを認識しつつ電車が動いていないので帰宅できないので、家族の無事を確認した上で、空いている居酒屋へ行くことに。状況の深刻さをこの時はまだ分かっていないので、地震で電車が止まっているだけと考えていました。
自分が当時住んでいたのは浦安で、東西線を使っていました。結局メトロは終日運航停止していたのですが、都営新宿線が動き始めたことが終電時間近くに判明。一之江駅まで行けたらあとは歩けるので、居酒屋メンバーに別れを告げ自宅へ戻ることに。
長い1日はこんな風に終わりました。
翌日以降はまたということで。