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サブ3.5ランナーのマラソン記録、古墳を楽しもCHANNEL!で伝えきれないこと

登呂遺跡(2016.3.5)

登呂遺跡と言えば、小学校の歴史の授業の中で強烈なインパクトです。
自分の小学生の頃というと40年近く前になるので、吉野ケ里の発見もなかった頃であり弥生時代の代表として登場していた記憶があります。
ただし40年の年月は考古学の進歩により常識が著しく変わりました。
今はそもそも弥生時代はいつ始まったのかの定義が変わってしまったのでこの点も踏まえておかないといけない点です。
ちなみに弥生時代の終了は、箸墓古墳の登場で古墳時代とするということで凡そ決まっているようです。

弥生時代の定義
元々は。弥生式土器が使われているという時代という意味で、弥生"式"時代と言われたりもしていました。
弥生式土器は東京都文京区の貝塚から発見された土器の地名に由来しています。
弥生式土器縄文式土器とは異なる形質により差別化していますが、始まりに対して終わりは?というと、その後の土師器(古墳時代)との違いは不明確でした。
その後、弥生式土器が使われた時代と水稲農耕の時代が重なっていることが明らかになってくると今度は、水稲農耕が縄文時代弥生時代の区別であるという考え方に変わりました。
では、水稲農耕の出現をもって弥生時代にしましょう!で決着したかというと、そうはならず縄文晩期後半の遺跡で水稲農耕があったことが発見されてしまいました。
実際の生活は明確に区切ることなんてできないので、新発見によりこういうことは起こるものですが、弥生時代は特に難しいですね。
この紆余曲折を経て従来の時代区分が 前期、中期、後期の3期から、早期をプラスして従来の縄文時代晩期後半を弥生時代に含めるようになりました。
ただし技術は北九州が先行していたため、この期の区分が一律であった訳ではありません。

●登呂遺跡の位置づけ
では私の小学生時代には弥生時代の代表のように登場していた登呂遺跡は、現在の弥生時代の定義の中でどこに位置づけられるかというと、
・福岡県板付遺跡(縄文晩期~弥生後期)
佐賀県吉野ヶ里遺跡(縄文後期~弥生時時代~古墳時代も存続)
静岡県登呂遺跡(弥生後期)
・福岡県平原遺跡(弥生後期)
奈良県纒向遺跡(弥生後期~古墳時代
代表的な弥生時代の遺跡を見るとこうなります。
弥生時代は北九州から始まり、その後長い年月をかけて登呂に伝播することになります。

●登呂遺跡の意義
現在では登呂遺跡から新たな発見がある訳ではなく、「○○○○の最初」というようなエポックが多くある訳でもないので、それほど話題になることはありません。
実際私が赴いた時も、休日ですごく天気も良かったのに人はすごく少なかったです。
私自身も、どれほど巨大な遺跡公園になっているのかと期待していたので現地に着いた瞬間は「こんなに小さいの?」という気持ちでした。
しかし博物館で資料を見ていると、登呂遺跡はマニア向けの遺跡だなという気がしてきました。
遺跡公園にある復元された建築物は「ねずみ返し」など、昔学校で教えてもらった高床式倉庫の工夫などが見られますが、登呂遺跡の価値は博物館内の解説にあるなと思いました。
端的に書くと
第二次世界大戦後の復興のモチベーション
・遺構と遺跡公園を両立する技術トライ
ですね。

ではチェックを。

●到着した古墳公園の入り口から

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●高床式倉庫

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●ねずみ返し(他の方も懐かしそうに撮影してました)

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●博物館屋上から俯瞰

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●資料にあった公園整備前の写真

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弥生時代を俯瞰する際に参考になる図書をご案内します。専門知識がなくても読みやすく現在の弥生時k代研究の状況が分かります。

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